澱ノ道

澱みに浮かぶ塵芥は 身どもの心の有り様で

澱ノ道と虚無主義

んべろんべろ
 
何度も念を押して言いますが
澱ノ道は宗教ではありません。
老荘思想に近いニュアンスを持つ「道」です。
それも東京湾岸の澱みを主体とする、
ややシュールで間抜けな道です。
そして先記事にも記載したように、
 
澱映心鏡:心の澱を鏡のように映す
 
遊心澱道:心を遊ばせ澱みに親しむ
 
愚澱安住:愚かに澱み、安らかに在る
 
停滞閑愚:停滞を楽しみ、閑かに愚である
 
この偈をもって澱ノ道の根幹とします。
 
澱みを前に無心に唱えることを考えるに
ニヒリズム虚無主義)の要素も少し入っています。
性急な流れの世間から外れて、澱んで停滞、ふわふわとたよりなく
澱みのように生きる、成功や努力や名声とも無縁。
 
ただニヒリズムが少し入ってるとはいえ
エミール・シオランのような哲学者ほど悲観的ではないし
あそこまで極端ではありません。
 
om 0ef2d0f3f4c4
共通点があるとしたら、
社会や権威から距離を置く姿勢・孤独や停滞を肯定する精神ぐらいでしょうか。
澱ノ道は48%の前向きと52%の諦観、そのぐらいの配分です。
  • 48% 前向き
     ── 明日を完全に否定せず、生活の小さな楽しみや澱みの美を受け入れる。

  • 52% 諦観
     ── 宿命や世間の流れに抗わず、停滞と間抜けさをそのまま受けとめる。

歴史に名を残すような偉人や政治家や先駆者ならいざ知らず
世の中の殆どの人間にとって
生きるなんて所詮間抜けなことなんです。
前向きと諦観がほぼ半々。微妙に諦観が勝ることで、「無理せず生きる」心構え。

言い換えると

澱ノ道は、人生を完全に悲観もせず、完全に楽観もせず、
ほんのわずかに諦めながら、でも生を味わう道です。

 

 


 

違う言い方をすれば

澱ノ道は「脱力したニヒリズムの美学」と言えるかもしれません。
ただ虚無に沈むのではなく、

むしろ澱みに漂うように、力まず、世俗の性急から退く態度です。

だからこそ虚無に落ちず、だらけながらも柔らかい自由を得る。
これは「孤独」や「停滞」を嫌う世俗の論理から一歩外れ、
むしろそこに人間らしい安らぎを見つける態度です。

間抜けで停滞した状態をそのまま受け入れる道。
だらけて生きても、希望に縛られなくてもよい。
 
・生きること自体が間抜けで暇つぶしであると感じる人、
・世界と自分との間になにか違和感や差異を感じて
 居心地の悪さを抱えて生きている人、
・社会や世間から求められる成長や夢や生き甲斐を放棄し
 自由に停滞や愚かさを楽しみたい人、
こうした人々に向けられた精神的実践・生活哲学と言えます。
 
ただ一心に 澱みを想って
ただ無心に 心の澱みを映して